2014年4月7日月曜日

春 朝の散歩


先週の土日が桜の見頃のピークと言われていて、週が開けたらもう桜はないかなとおもいきやまだまだ咲いている。
雨風に吹かれても存外残っているというのは、寒気の流れ込みで気温がそう上がらなかったからか。冷蔵庫の中で日持ちさせた桜といったところだ。
家のすぐ近くの大橋には桜の開花とともに、立ち止まって写真を撮ったり、眺めたりする人が増えた。いつもなら少しちらっとみて通り過ぎる野川が、春はここ一番とばかりに人の目を惹きつけるのは面白い。野川のよいのは冬から春にかけてだろう。夏から秋は蚊が多くて近づけたものじゃないんだから。

さて、今朝は少し残った野川の桜には背を向けて、蟹山に向けて歩いてみる。早朝、もやのなか、早めに仕事へ出かける人や犬の散歩をする人、自分の日課の散歩をする人など、まぁこの時間に起きて歩く人といえばご年配の方々ばかりだ。気持ちのよい朝の空気はこの街を行き交う人同士の気持ちを明るく照らして、すれ違うときには気持ちよい挨拶となって体から出て行く。目の前を歩くおじさんが綺麗な姿勢で祇園寺に一礼するのをみると、視線の先には寺坊が箒で落ち葉を集める音がしている。彼に続いて僕も一礼。寺に向かって礼をするというのは果たして誰に対して礼をしているのだろうなぁと思いつつ、多分仏様か、この付近に集う魂に対してか、はたまた神仏が集まってできた何かしらの神様のようなものにか、まぁどれも正しいのだろうけれど、そのような自分とは違う世界の存在にたいして、ご挨拶をして、頭をあげると頭に残った昨日の粗熱がすっととれて、静かな温度で体内が満たされる気がするのは面白い。そうしてきれいになった気持ちで歩けば、それは自然と行き交う人や犬にも気持ちよく挨拶できるようになるだろうなぁ。先を歩くおじさんは、散歩の犬とじゃれあってご挨拶。黒い傘を肩にかけて軽やかに歩いている。向こうから朝日が指していて、なんでもないおじさんなのに憧れのような感覚を抱いてしまうのが悔しい。ああ、かつてはこのような気持ちでよく恋に落ちていたのではないかと思う。太陽を味方につければ百戦危うからずなのだ。

さて、途中のサークルKでコーヒーを買って、蟹山へ。指の外側が冷たい。

朝日は、東側から照らして、山肌に陰影を作る。
西側にある大きな染井桜にはかろうじて日があたっていて、なんだか安心する。朝の空気は冷たいから、どこか日があたっていているのを見つけるとほっとするのだろう。日向にいこう。
ひろばに抜ける小道をあるいて見上げると、この山の広葉樹達はまるで今朝目覚めたかのような若葉を梢の先に載せている。「あ、新緑がきれいだな」と思うような新緑ではないところがいい。まだ山は全体に茶色くて、春らしさからは遠いけれど、よく見るとウグイス色の芽がちらちらしているところがいじらしいのだ。そういえばこの前奥さんが、「山の妖精が春の種をパラパラとまいて、そこから新芽が出てきたみたい」と言っていて、そういうものかなぁと思っていたのが納得に変わる。確かにそうだな。この新芽はまだ木の一部ではない、春の分身のようなものなのだ。

ベンチに座ると、冷えきった温度が腰に伝わってきて、そう長くは座っていられない。
立ち上がってラジオ体操。その後でスケッチブックとペンを出して、向こうに見えるベンチをスケッチしてみる。
朝日の作る陰影、横に這い出すように太い枝を伸ばした桜の枯木には、枝の上で芽吹いたのだろう若い桜がまっすぐ上に伸びている。随分重たかろうなぁ、そんなに何本も上に乗せてと思うけれど、苔むした老木は無口に、自分も日の当たるところ枝に桜をたっぷり咲かせているのだ。音が何も聞こえなくなるような風景のラインに沿ってさくさくとペンを進める。

帰り道はにぎやかだ。通学する高校生の女の子、おしゃべりと散歩がセットのおばちゃん達、そのうちに小学生たちが駆け足で学校に向かっていくだろう。今日もいい一日になりそうだ。

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